電気メッキの始祖

1836年

電気メッキは1836年エルキントン氏が金メッキを
創めたのに続いて、パーレット氏の亜鉛メッキ
(1938年)、ライト氏の銀メッキ(1940年)と
順次各種の金属に亘ってその範囲が拡げられて行き、
1869年に至ってアダム氏によってニッケルメッキが
実施されるに至った。

1855年

日本では焼着メッキは古くから行われていたが、電気を
応用した電気メッキの始祖は鹿児島藩主島津薩摩守斉彬
(なりあきら)である。斉彬は西洋の技術を早く
取り入れ、城内に開物館を、磯の別荘内に集成館を
設けて各種の科学実験を行い、1855年(安政3年)頃に
甲胃金具に電気メッキを行ったと伝えられている。
そのメッキは金と銀の二種類であった。
島津公は又、複塩銅液により電鋳を行い活字を鋳造した
ことも伝えられており、今日の我々の糧であるメッキ
技術の種を播いた第一人者である。

とは云うものの、それは本当の研究の範囲を出るものではなかったらしく、これが実際に工業化されたものは
1876年(明治9年)西洋百工新書にその技術が紹介されてからの後のことである。

明治9年

宮崎柳条という人が西洋百工新書を出版した。
その中に電気メッキ法が書かれているが、科学的に取り出した電気、
即ち電池よりのものをガルバニそしてその電池をガルバニ機(電気機)といった。
他の電気、例えば静電気などはエレキという風に区分されていたようである。


近代


今日に至る110年たらずの間に、メッキは近代生活において不可欠の存在となりその技術は加速度的に上昇し、前進し、
ついに今日我々が会得した点に到達したわけである。更に矢継ぎ早やな新研究が発表され、時代の尖端を行く工業として注目を
ひいている。

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